★イベントレポート「第12回 能狂言公演」2019年2月24日(日)開催

海原様 不破様 蓬田様

当ホールの情報発信ボランティアによるレポートです。イベントの雰囲気や感想を発信する活動をしています。

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 渚から歩いて10分で、能狂言を鑑賞できるのが嬉しい。

 スニーカーについた砂を落としてホールに入る。観客は和服の女性などが見受けられ華やいだ雰囲気。

 舞台に、今日の能でシテを演じる柴田稔氏。番組の見どころや、あらすじを、分り易く解説してくれた。

 仕舞「老松(おいまつ)」が始まる。観世銕之丞のインナーマッスルから、発する響きある声が気持ちいい。恥ずかしながら、松は長寿を祝う意味だと知った。逗子もかつて別荘文化の頃は、松が海岸付近に多くあったような気がする。

 この作品は、老松の精が現われて謡い、舞い。梅と松と御代のめでたさを讃えている。謡いの中にある言葉。君が代の詞章にある「さざれ石」を朝、梅をみにいった北鎌倉の寺院境内で見つけたのは、偶然だろうか。

 狂言「末広かり」は、いつ拝見しても、お元気な人間国宝の野村万作(88歳)が、軽妙かつ上品な現代版コントを演じて、客席からは、笑みがもれる。

 休憩を挟んで、能「小鍛冶こかじ)」。逗子文化プラザホールのリーフレットには、演者のセリフが印刷してあり、より興味が深まった。本作品は五穀豊穣をもたらす御剣を打ち上げるストーリー。

 真剣は、ケースごしにしか見たことしかないが、武器というより、鍛造する人刀鍛冶の精神が映しだされているように思えた記憶が蘇る。

 東京・国立劇場では、天皇陛下在位30年の記念式典が行われている。これに合わせて、逗子でも祝言性の高い演目を集めた公演にしたそうだ。

 能といえば、幽玄の世界を歩む楽しさが、私にはある。しかし日本で、戦争がなかった平成の終わりに、今日のように、祝言性の高い能狂言を鑑賞できたことは、ありがたい。

 逗子文化プラザホールでは、敷居が高いと思われている人やより深く鑑賞したい人のために、2回に渡り、本公演を楽しむための、能楽事前講座を開催している、丁度、用事があって受講できなかったが、次回の公演に伴う講座があれば、受講したいものだ。

情報発信ボランティアライター 海原弘之

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 人生二回目の逗子能狂言公演、今回もやはり『通』、と思しき人の姿が多く、何しろ渋くお洒落な着物姿の女性たちの姿が多いのもお能の楽しみの一つ。

 先回同様、私の予想を覆したくさんの人で会場はほぼ満席。なぎさホールは能舞台に姿を変えて、開演を待っている。

 最初に演者が本日の演目の内容を解説してくれるところが初心者にはありがたい。本日は平和を愛する今上天皇在位30年式典にあたる日で、祝言性のある演目、ということで仕舞は『老松』。『君が代』の歌詞はこの詞章から来たということを初めて知った。

 舞台にはまず音もなくシテと地謡が登場、がらんとした広い空間だった舞台が、瞬く間に高密度に変わる。彼らはいるのだが、いないがごとく舞台は進む。昨日のはやぶさ2の着陸を思って、ブラックマターという言葉が頭に浮かぶ。扇を自在に操って力強く大きく舞う観世銕之丞の姿がうねった枝ぶりの立派な松の木に見えてきて、おお、私でもちゃんとわかるじゃないかと嬉しくなる。

 続く狂言『末広かり』では人間国宝、野村万作をいよいよ生で拝見。

 扇子を引き出物に使いたい主人に末広がりを買って来いと言われ、太郎冠者が出かけるが、都で詐欺師に騙されて唐笠を持ち帰る。言葉遊びも傘の柄と絵をかけて遊んだり、なんだか落語を聞くようだ。冠者が怒った主のご機嫌とりに唄う囃子物を聞いて、主はついつい拍子をとって身をゆすりあげ足踏みしてしまう。そのダーン、と踏み鳴らす板の音、人間国宝の音は、一度聞いたら忘れない音だった。最後には冠者と二人、モダンダンス顔負けの激しい片足とびのデュエットを見せ、客席にも聞こえるほどの激しい息遣いのまま、静かに舞台から去った。そうだ、日本人は本来陽気でユーモアが分かって、踊るのが大好きだったんだ、と今更気づいた。

 最後の能は、『小鍛冶』。小鍛冶宗近が、稲荷明神の化身である狐に相槌打ってもらい剣を作り、天皇に献上する。早変わりや舞台装置も登場し、能面も次々と代わり、衣装の華麗さもあって実に華やか、歌舞伎の源を見る思い。演じ終わると、ぷつん、と電源が落ちたように音が消え、あとを振り返ることもなく、静かに一人又一人と舞台から去って行き、最後には又、がらんどうだけが残った。能楽とは、実は日本のミュージカルだったのだ、と思った一日だった。

情報発信ボランティアライター 不破理江

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 能狂言と聞いて、いつも若干緊張する。削ぎ落とした幽玄の概念といった高尚な印象で、畏まって拝見しなければいけないような気持ちが先に立つ。日頃から時間に追われて過ごしている市井の者にはなかなかに申し訳ないような気持ちになってしまい、敷居が高いのだ。それを地元の逗子で観覧することができるのだからありがたい。今回は祝言性がテーマの作品がチョイスされているとのこと。

 まずは能「老松」から。タイトルからしてめでたい感じ。能の印象そのままの美しい謡と舞。老松の精が君が代を寿ぐ。

 次は狂言、「末広かり」。主人から末広がりを買ってこいと言われた太郎冠者。主人は形状のみを説明し、それをヒントに街に買いに出る。街角で詐欺師に声をかけられ、唐傘をそれだと言いくるめて高値で買わされ、主人のご機嫌を治す囃子物をオマケで教えられる。結果、やっぱり怒られて追い出されるのですが、教わった囃子物を踊って主人が機嫌を治すというまさかの結末。「すべすべにいたす」など擬音が今と同じものなので、古くから使われていた表現なのだなと妙に感心したりした。

 次の演目は能「小鍛冶」。能の中でも人気で娯楽性の高い演目とのこと。確かに、演者がじっとしている場面が少なかったように感じた。御剣を打たせよという不思議な夢を見た天皇の命を受けた小鍛冶宗近。剣は相方いないと打てない。困った宗近は奇跡を頼んで稲荷明神へ参詣に向かう。そこで普通の人とは思えない少年に声をかけられる。今聞いたばかりの御剣作りを知る少年を不思議に思う宗近に「げにげに不審はさる事なれども、我のみ知ればよそ人までも」つまり、不思議に思うだろうけど、ひとりでも知れば(壁に耳あり岩に口)それは沢山の人にも知られちゃうに決まってるじゃん、と今のSNS時代を思わせる言葉を返す少年。励ますために剣の霊験あらたかな故事を話して聞かせる。この話が祝言なのだ。御剣を打つシーンはまさに見せ場と言った感じで見応えがあった。

 古典芸能の舞台は今を生きる自分とはまったく時間の流れるスピードが違う。その差にいつも少し戸惑う。焦る気持ちをリセットし、もっとじっくり楽しめるような余裕を持って過ごしたいと感じた。

情報発信ボランティアライター 蓬田ひろみ